語るに足る、ささやかな人生

 丸ノ内線で泣いている子を見かけた。
 台風のため1時間遅れた飛行機で羽田に着き、リムジンバスで新宿西口へ。着替えの入った大きなカバンとビジネスバッグを抱えて地下鉄のホームにたどり着くと、長蛇の列。しまった、もう金曜の0時過ぎだったと気づいたがもう遅い。
 ケチらずタクシーに乗ればよかった、と思いながらカバンを網棚にあげると、ふとその下に座っている女の子が泣いているのに気づいた。うつむいて顔を覆っているが、肩まで届かないくらいのショートカットで、年は20歳前後といったところだろうか。腕には革ひものブレスレットを巻いている。
 電車の中で泣いている人を見かける機会は、そうあるものではない。
 泣きじゃくるのではなく、すすり泣くといった感じだ。静かになったと思ったら、膝の上に置いた黒いバッグに涙の粒が光っていて、ハンカチで拭ったりしている。
 車内には金曜の終電まぎわ独特の、必ずしも幸せとは限らないけど、何かから解放されただらんとした空気が漂っているのだが、彼女のまわりだけちょっとセンチメンタルな雰囲気に包まれていた。
 事情はわからないけど、いま彼女に必要なのは「元気出して」と声をかける人だろう。でもこれだけ揃っている大都会で、本当に大切なものがない。

語るに足る、ささやかな人生 (小学館文庫)

語るに足る、ささやかな人生 (小学館文庫)

 アメリカというとどうしてもニューヨークやLAといった大都会を思い浮かべてしまうが、この本は無数に存在する「スモールタウン」といわれる人口1万に満たない町の旅行記である。

 ごくささやかな小さな町を舞台に、誰もが人生の主人公だった。語るべき内容と信念を人生に持ち、それでいて声の大きな人物はひとりもいなかった。大きな成功よりも小さな平和を、虚栄よりも確実な幸福を、町の住民に自分が役立つ誇りを、彼らは心から望んでいるように見えた。

 この本に書かれている人々の物語は、億万長者になる方法ではないし、政治家や弁護士になって社会的名声を得る話でもない。ありふれた、しかし、その人たちが自信を持って語る生き方である。
 たとえば、町の人が集まるカフェで、わずか50セントのコーヒーを出すマスター。

「コーヒーはお金を取るためのものではない。何を食べるにも、もしくは何か考え事をするために、それが必要だからあるんだ。家でも飲めるようなもので儲けてはいけないだろう。」

 金曜0時の丸ノ内線で、誰にも肩を支えられず一人泣く子には、こういったコーヒーが、マスターが、喫茶店が、スモールタウンが必要なのかも知れない。
 もちろん、僕らは実際に、東京という1000万都市のど真ん中で生きているわけで、海の向こうのスモールタウンに逃避することがいいとは思わない。それでも人とつながることが絶望的に思えるこの大都会で、スモールタウン的な生き方をする人がもうちょっといてもいいんじゃないかと思う。
 臆病な僕は彼女に声をかけることもできなかったけど、まわりまわって彼女のような人にこの本が届いてほしいと祈っている。