雲南をたゆたう その2

いい日旅立ち」を、1番だけで構わないので、きちんと歌えるだろうか?
 帰国してから周りの友達に試してみたけど、みんな揃って「♪いい日旅立ち〜」から歌おうとする。これはサビなので、まもなく行き詰まる。生まれてから何十回と聴き、幾度となく口ずさんできた曲なのに、素ではなかなか歌えないものだ。カラオケに頼り切って軟化した頭脳からは、歌詞がほんとうに出てこない。
 それを、わが国から遠く離れた雲南省の西方、洱海という静かな湖の畔で、女の子に歌ってほしいと頼まれるのだから、日本人旅行者も楽ではないのだ。

 その子と出会ったのは、雲南省の北西、麗江という町でのことだ。
 ナシ族が800年ほど前に築いた古い町は、世界遺産に登録されている。小高い丘に登って見下ろすと、ぎゅっと密集した家屋の瓦屋根が波打つさまは、新鮮な魚のウロコを見るようで、美しい。ただ、それは遠くから眺めればの話である。
 中国人の悪い癖で、観光地となると風情も情緒も取っ払い、とことん開発してしまう。おかげで麗江の古い町並みも、歩いてみれば飲食店と土産物屋と宿が集まったうるさい場所に過ぎない。
 嫌気が差して、町の北に聳える玉龍雪山を目指すことにした。麗江の町は標高2400mだが、雪山の最高峰は5596m。登頂する装備も体力もないけど、ロープウェイで4506mまで行けるそうだ。富士山よりはるかに高い場所へ簡単に登れるのだから、中国恐るべしである。
 雪山へ向かうバス乗り場は「紅太陽酒店(ホテル)前」にあるとガイドブックに書かれているのに、肝心のホテル前の道路は工事のまっ最中だ。この国の常として、「どこそこに移転しました」という親切な看板や張り紙は当然ない。あたりを歩き回って、30mほど離れた路地に駐まったワゴン車に「雪山行」の表示があるのを見つけて乗り込んだ。
 雪山に近づいたところに設置された料金所でバスは止められた。ガイドブックにも入山料として一人80元(約1000円)徴収されるとあるのだけど、やってきた係員が何やら難しそうなことを説明している。僕のへっぽこ中国語ではまったく聞き取れないし、向こうは向こうで地方の下っ端役人に過ぎないのだから英語など通じない。互いに困っていたところで助け船を出してくれたのが、北京から来た燕儿(エンル)である。

 結局、彼女の通訳によって、係員の言いたいことが分かった。「一番高いところへ行くロープウェイは風が強くて運休だが、途中まで行くことは出来る。それでもお前は高い金払って(注:80元といえば大金で、泊まったユースなど一泊50元だ)入山するか?」
 言葉は通じず、おまけに案内看板も少ない場所での行動に不安を覚えた僕は、一人旅をしている燕儿に、金魚の糞として付いていくことにした。話を聞くと彼女は同い年で誕生日は20日違い、内モンゴル自治区の出身、北京の大学で国際ジャーナリズムの修士号を取得したが、今は銀行に勤めているという。英語が流暢なのはブリュッセルへの赴任経験があるからで、まあ、文句なしのエリートである。
 燕儿とはその後3日ほど旅を供にしたのだけど、僕がいつも会う中国人とはずいぶん違った。賑やかな場所や派手な場所が苦手で、宿も麗江から離れた束河という静かな町に取っているほど。お酒もタバコもやらない。趣味はラテンダンスや水泳で、好きな音楽は小野リサ。ドラマは「フレンズ」や「プリズンブレイク」を観る。一人旅が好きで、トレッキングなどのアウトドアを楽しむことが多いという。
 燕儿のセンスはとても都会的で、欧米のライフスタイルを大切にしている。今は一握りの進んだ若者たちの感覚に過ぎなくても、経済発展と数十年単位の時間経過によって広がるのだろう。改革開放の荒波は、中国人の騒々しさすら流し去ろうとしているのだろうか。


 燕儿は日本も大好きで、東京や北海道を訪れたこともあるという。こんどは「納豆」に行きたいというので、よくあんな粘りけのあるところに行きたがるなと思ったけど、ちゃんと聞くと伊豆のことだった。
 中国人の好きな日本人として、高倉健のほかに山口百恵があげられる。燕儿もその例にもれず、「伊豆の踊子」を観て感動したらしい。「赤い」シリーズの再放送などが人気を博しているけど、歌は知られていないそうだ。
「日本では歌手としても人気だったんだ」
「試しに一曲聴かせてよ」
「でも歌詞の意味が分からないんじゃない?」
「じゃあ手帳に訳を書いて」
 歌詞を思い出すのも大変だったが、英訳はもっと困難である。「過ぎ去りし日々の夢を叫ぶとき/帰らぬ人たち熱い胸をよぎる」なんて、僕の乏しい英語力ではとても立ち向かえない。辞書もない。結局、帰国してからちゃんとした翻訳を贈る約束をさせられた。
 燕儿とはしばらく旅を供にした。夜中の大理駅で、昆明行きの夜行列車を待っているとき、彼女は呟いた。
「この国は変化が早すぎる。かつては役人、ちょっと前は金融業がもてはやされていたけど、十年二十年経って自分がおばさんになったときに、どんな仕事について、どんな生活をしていればいいのか、ぜんぜん分からないの」
 高度成長する中国を僕たちはうらやましそうに眺めるけど、彼らにとっては戦いのまっただ中で悠長なことを言ってられないのかもしれない。上るだけ上ってしまって、あとは下り坂という日本の若者と、何になればいいのかという悩みだけは同じなのだが。

雲南をたゆたう その1

 脚の長さと強さだけは自信のある僕ですら音をあげるほど広大な「雲南民族村」は、雲南省の中心・昆明にあるテーマパークだ。敷地面積は120haというから、東京ディズニーランド(51ha)とシー(49ha)をあわせても及ばない。
 中華文明の心臓部から遠く離れ、険しい山によって隔てられた中国南部の雲南省が、中央政権の支配下に置かれたのは明代、600年ほど前のことである。何千年という時間感覚を持つ中国では、つい最近のことだ。結果として漢民族に溶け込まない少数民族が数多く残った。
 高度成長とともに空前の観光ブームに沸き立つ中国人にとって、雲南省は「国内でありながら異国情緒を味わえる観光地」として注目されている。とはいえ珍しい民族ほど不便な場所に住んでいるのは自然の摂理。できるだけ楽したい観光客のためにつくられた「少数民族ユートピア」が雲南民族村なのだ。

 村内には政治の匂いが立ちこめている。イベントスペースはその名も「団結広場」、スタジアムで開催される民族ショーのキャッチコピーは「大型民族民間情景歌舞」である。実際には漢民族が圧倒的多数を占めながら、対外的にも国内的にも「多民族国家」であることをアピールしなければならない苦しさが、必死の「ほーら、みんな仲がいいんですよ」という態度に透けて見えるだろう。
 ただ中国でありがちな展開として、建前は立派なのだけど現実が追いついていない。民族ごとに場所が割り当てられて、独特の建築やイベントを披露しているのだけど、そのノリは高校の文化祭だ。訪れたお客さんにサービス精神全開の民族もあれば、やらされている感漂う民族もある。
 学者による専門的な解説でもあれば違うのだろうけど、言葉の分からない日本人にとって漫然と散策しても面白みが分からないだろう。ならば逆手にとって、テーマパークで民族問題についてマジメに考えてみようと企んだ。博物館のようなマジメなところに行けばマジメに考えられるものでもあるまい。以下は「地球の歩き方」の「少数民族紹介」をベースにしたものなので、話半分で聞いてください。

 一口に少数民族といっても1000万人クラスのチワン族から、1万人を切る民族まで様々である。一般に人口が多い民族の展示は堂々としているけど、ヌー族(3万人)プミ族(3万人)トールン族(7千人)あたりはいずれも山の民といった印象で、違いがよく分からない。

  • 引っ越し組にはドラマがある。

 昔から雲南にいたのではなく、元の時代に移住したモンゴル族や、清の時代にやってきた満州族には、なぜ引っ越したのかという物語があるので面白い。モンゴル族のゲルにはチンギスハンの肖像が掲げられているし、満州族の住居には京劇の仮面がずらり並んでいる。

  • エリア外に本拠地があると、イメージしやすい。

 何もかもキンキラでインパクトありすぎなタイ族や、独特な様式の寺院を建ててしまったチベット族は、本拠地のイメージが強いので明解だ。回族の敷地内にあるモスクには「イスラム教徒以外は立ち入るなかれ」と張り紙がされていて、イスラム世界の頑なさが伝わるだろう。

  • 一つでも強みを持っている民族は得。

 母系社会の伝統をもつモソ族や、道教を大切にするヤオ族など、「この民族はこれ!」というインパクトを持っている民族は印象に残る。キリスト教の影響を受けて教会を建てたミャオ族や、音楽が大好きでアコースティックの演奏で迎えてくれるラフ族も同様。

  • メジャーな観光地を持っているとかえって辛い。

 世界遺産麗江をホームにするナシ族や、同じく観光都市として有名な大理に住むぺー族の展示は、この民族村を先に訪れれば何の問題もないのだけど、逆に麗江や大理を観光した後で民族村に来るとスケールの小さいまがい物をみるだけなのでぜんぜん面白くない。

 以上、ディズニーランドでアメリカ文化を語るような無謀な試みだった。実はもう一つ楽しみ方がある。村内には民族衣装を着た若い男女がたくさんいるので、コスプレ感覚でかわいい女の子やイケメン男子を探すのもありだと思う。そっちの方がよほど健全だよね。

思い出のサンフランシスコ、とは言うけれど


 「まさに傷心旅行ですね」なんてからかわれながら、9月頭に一週間ほどサンフランシスコへの旅に出た。「正しい男はいつも傷を負ってるのさ。それが疼くか疼かないかだけでね」と自分でもよくわからない答えを返しながら、土産話を続けようとして考えこんでしまう。旅の思い出を語りにくい街なのだ。
 滞在の日々がつまらなかった訳ではない。むしろ楽しくて仕方ない街だ。かつて世界最長の吊り橋だったゴールデンゲート・ブリッジを渡れば壮大さに息をのむし、獄門島として知られるアルカトラズ島へのフェリー・ツアーは観光案内が行き届いている。サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地AT&Tパークで潮風にさらされながら大リーグを観戦すればボールがミットに入る音まで聞こえるほどの臨場感に野球の面白さを思い出す。散歩すれば丘と海の街なので高台から美しい風景を眼にするだろう。

 地下鉄、路面電車、バスなど公共交通も整備されているから移動に困ることもない。夏の気温は日本より10度低いので、霧の出た朝など涼しいどころか寒いほどだ。アメリカ滞在で悩まされる食事にしたって、都心からほど近いチャイナタウンとリトル・イタリーに足を伸ばせばいいだけだ。
 訪ねた人はこの街を好きにならずにいられないだろう。もちろん、実際に住んでみればそれなりに文句を言いたくなる(家賃が高いとか)のだろうけど、たとえ数日しか滞在しない観光客であってもその片鱗を見せない街というのは珍しい。中国なんて10分いれば100くらいクレームをつけたくなる。

 サンフランシスコのシンボルが、丘を登るケーブルカーだ。どれも1両編成で満車が続くから乗るのに待たされるし、1回乗るだけで5ドルも取られるため客は乗り放題の切符を持った観光客ばかり。それでもケーブルカーだから線路の下にはケーブルが張り巡らされており、道を渡るときなど足元で滑車の回るカラカラという音は、街が脈打っているようだ。ノブヒルのケーブルカー博物館を訪ねれば、強力なモーターと巨大な車輪で3路線分のケーブルを動かしている迫力に圧倒されるだろう。こちらは街の心臓と言えるだろうか。
 そんなサンフランシスコだが、全てを捨てて住み着くほどの愛情を抱けるかというと、そうではないのが不思議である。いい人だけど恋愛対象にならない奴みたいなものか。ニューヨークのような大都市の怖さや醜さは感じないし、それでいて都会の便利さを味わえる快適な場所なのだけど、その欠点のなさがどこか物足りない。
 『地球の歩き方』に「おもな見どころは1〜2日で回れる」とあるが、逆説的に言えば「旅人は長いこといても仕方ないですよ」ということだ。異国を探検するスリルには乏しい。

 だから観るところを観たら、何をしようか迷ってしまう。湾岸のフィッシャマンズワーフ辺りをぶらぶらしていた僕は、倉庫に掲げられた看板に目をとめた。「MUSEE MECANIQUE」入ってみると、中には機械仕掛けの人形や野球盤、ピンボール、パラパラ写真といったアンティークなゲーム機が百台以上揃っている。プライベートなコレクションというのだからすごい。入場無料で、ほとんどの機械は25セントなのだから、その気になればいくらでも時間をつぶせるだろう。古き良きアメリカに思いをはせながら、だらだらと懐かしいゲームに興じる、これがサンフランシスコにおける上等な時間の使い方だと思う。
MUSEE MECANIQUE http://www.museemechanique.org/

ブックブックこんにちは「その64 サンフランシスコで会った二人(前編)」 もよろしければどうぞ。

マレー半島きたみなみ その4

 香港に隣接する中国の深センは、蠟小平の「改革開放」の掛け声によってほとんどゼロから作られた街で、きれいに縦へ横へと整備された道路、中心部にそびえ立つ高層ビル群と、郊外に広がる画一的な団地や工場に、ゲームの「シムシティ」で作ったような感じを受けた。マレーシアの最南端・ジョホールバルで列車に乗り込んできた出国審査官のパスポートチェックを受け、コーズウェイをわたったウッドランズで入国審査を済ませ(どちらか一方で済まないのかと思うが、マレーシアに飲み込まれることを恐れるシンガポールがあえて面倒にしているのではないか?)、シンガポールに入国した僕は同じような人工都市の印象を抱いた。


 もちろん乾いた街である深センと違って、シンガポールは空いた土地があれば緑で覆われ、国全体が森林公園のようだ。中心部を歩いていても混沌や猥雑さを感じない。日本語を含めた数ヶ国語で表記された案内標識があちこちに見られるし、地下鉄やバスのネットワークはよく整備され、東南アジアのほかの国ではまともに機能していない歩行者用信号も健在だ。海外を旅したことのない僕のおふくろを放り込んでも、ほとんど不自由しないのではないだろうか。
 
 世界三大ガッカリの一つと揶揄されるマーライオン(僕は暗くなってライトアップされたものを、しかも水上から眺めたためか、そもそも期待値が低かったためか、あまりガッカリすることはなかった)の鎮座するシンガポール川の河岸に立ってみてほしい。国際的な金融機関や大企業のビルが高さとデザインを競うように立ち、リバーサイドに連なるテントは世界各地のグルメを集めたオープン形式のレストランで、身なりのきちんとした男女が食事を楽しんでいる。現代都市の上澄みだけを集めたような光景に、僕ら日本人は「あぁ、なんて自分はゴミゴミした街に住んでいたのか」と嘆くことだろう。


 帰りは36番のバス(当然のごとくギアはオートマチックである)に乗って空港に向かった。郊外の住宅地を経由するのだが、この都市国家の恐るべきところは、中心部で圧倒された完璧主義が国土を覆っていることである。マンションにしても日本の団地のような野暮ったいものではなく、一棟一棟が現代建築のテキストに載りそうなお洒落さだし、空き地があればそこを芝生と木々で埋めざるを得ない。それは強迫観念といっていい。おそらく単位面積あたりの芝生消費量はぶっちぎりで世界トップだろう。

 シンガポールは19世紀初頭にイギリス人ラッフルズの開設した自由貿易港からその歴史を始めているが、その長くない年表すらシュレッダーにかけ、保存を決めた一部の建物(ラッフルズ・ホテルとかシティ・ホールとか)を除いては全てをここ十年、二十年のうちに造りなおしたかのように思える。潔癖さとモダン志向はもはや病的といってよい。

 息苦しくなっていつものチャイナタウンに救いを求めたが、あの華人ですらこの国では飼いならされているようで、街は整然としている。だいたい静かに語り合っている中国人なんて中国人ではない。帰りにトランジットで香港に立ち寄った際、マシンガントークをあちこちで繰り広げる様子を見て、懐かしさに涙したくなった位だ。


 困り果てた僕は、サルタンモスク裏のアラブ・ストリートにたどり着いた。そこに立ち並ぶ商店の、ドレスにアクセサリー、カーペットなどの色彩の見事なこと! アラブ人というと十年位前まで上野公園で違法テレカを売っていたような印象しか持たなかったけど、本来彼らは豊かな文化をもち、さらには海を渡って東と西を結ぶ貿易の民だった。その良質な部分と、シンガポールの持つ現代性がブレンドされて、僕を陶酔させる。折りしも夕暮れの祈りの時間らしくモスクから響いてきたコーランが新たな旅にいざなうようだ。アラビアを訪れてみたい。官能あふれる色使いの源を、たとえ今枯れ果てているにしても、一度見てみたい。ああ、もはや悪癖となった旅なんて異動を機にやめようと思ったのに! 心を入れ替えてちゃんと働こうと思ったのに!

マレー半島きたみなみ その3

 午後11時、ようやく着いたタンピンの駅で僕が何をしたかというと、湿ったTシャツやらトランクスやらハーフパンツを取り出し、ベンチに干すことだった。これには説明がいる。


 旅先では観光名所を制覇しようとあれこれ詰め込んでしまうものだが、灼熱の太陽はそんな前向きさなどあえなく溶かしてしまう。行きの飛行機でガイドブックにつけた付箋は存在意義を失い、街を歩くのは朝のうちと日が暮れてから。日中は宿に戻ってシャワーを浴び、乾いたシャツに着替えてコーラ片手(イスラム圏なので税率が凄いためか国内生産量が少ないのか、ビールはびっくりするほど高い)に、クーラーの効いた部屋で昼寝をする以上の喜びがあるだろうか。

 ここで問題がある。リゾートに長期滞在するタイプの旅行ならスーツケースに山ほど着替えを詰めていけばいい(でもひとりでリゾートに行くか?)。周遊型でも高級ホテルを泊まり歩くならランドリーサービスを頼めばいい。問題は今回のように、バックパッカーマレー半島を北から南へ縦断する場合である。


 僕の予算で選べるのは千円札1〜2枚ほどで泊まれるような安宿なので、ランドリーサービスはあったりなかったりのバクチである。あいにく首都クアラルンプール滞在でチャイナタウンの片隅に見つけたホステルには、そんな気の利いたものはなかった。

 すでに残りの着替えはゼロ(そもそも2セットしか持たないのだ)、おまけに次の晩は夜行移動なので洗濯不可。ここに到っては、自力で洗うほかない。冒険家・石川直樹の本のタイトルに「全ての装備を知恵に置き換えること」というのがあるけどまさにその通りで、シャワールームの床に洗濯物を放り出し、ビニールに入れた粉石けんをふりかけ、超原始的な「足踏み式洗濯」に勤しんだ。

 一仕事終えて見回すと、この部屋には窓がなかった。(早く気づけよ!)下界とのつながりは液晶のテレビ(これもアンテナ線がつながってなくて、手作業で接続すると1チャンネルだけ映った)のみで、いくらテレビが世界の窓がわりといっても洗濯物は干せない。あきらめて、持参したビニール紐を室内にはりめぐらせ運動会の万国旗のようにTシャツやらを吊るしたのだが、いくら熱帯とはいえコンクリートの密室では乾くものも乾かなかった。


 というわけで、一日湿った洗濯物で重いリュックを背負い、深夜になってようやく駅のベンチに干していると、インド系の青年がやってきて「何をしているのか」と訊ねる。彼の故郷はジョホールだが、こちらの学校に通っているのだという。「下手な英語ですみません」いや、僕のは言語とすらいえないくらいなので…「トーキョーはとても便利な街だし、ニホンは文化も産業も進んでいて尊敬します」いや、駅で洗濯物を干すようなのが日本人で申し訳ない…恥ずかしさを救うのように珍しく時間通りやってきた列車に乗り込むと、疲れきってすぐ眠った。シンガポールまではおよそ7時間。

マレー半島きたみなみ その2

 その晩はガイドブック曰く「車で1時間ほど離れた」タンピンという街の駅から、夜行列車に乗らねばならない。港町は闇に包まれ時刻は午後8時。まずは町外れにある長距離バスターミナルまで17番の市バスで戻らねばならないのだが、バス停が存在しないので乗り場がわからない。見かねたらしく、日焼けしたトライショー漕ぎのおじさんが「ここに止まる」と案内してくれた上、「木の下で鳥の糞に狙われるから、もっとこっちで待ってるように」と手を引いてくれた。バスが来たのでお礼をしたところ「その代わりマラッカが世界一の街だと、日本の友達に案内してくれ」と握手。おじさん、ちゃんと書いたよ!


 長距離ターミナルに着いたのが8時45分ごろ、最終のタンピン行きは9時だというのだが、時間になっても来ない。ほとんどのバスは終わってしまったようで、建物はがらんとしている。異国の街外れで、ポツンと取り残される心細さを何に喩えたらいいだろう。9時10分頃それらしきバスが来たのだけど、運転手は無情にも電気を切って消えてしまった。再び待ち人来たらずの心境で耐えていると、運ちゃんは9時40分頃戻ってきて数人の客を乗せ、ようやく出発した。ここで快哉を叫んだのだが、まだ早かった。

 実にボロいバスで、せっかく出発したのに10分ほどでシェル石油のスタンドに入ってしまう。脇の蓋をあけてオイルの残量を棒でチェックしていたと思ったら、座席下からペットボトルを取り出して注ぎ込んでいるのに驚愕した。それでいて平気でタバコを吸っていたのだから恐ろしい。(ちなみにペットボトルでなにやら補給するのはバスの得意技で、同じ朝乗った高速バスもエンストすると水を注ぎ込んでいた。クルマなんて実に単純な構造で出来ているものだと思う。)

 マレーシアの高速道路はよく整備されている(物流のメインは道路輸送なのだろう)し、首都クアラルンプール周辺を除けば鉄道よりバスが便利だけど、難しいのは降りるタイミングである。LED電光掲示はおろかテープによるアナウンスもないので、運転手に繰り返し伝えておかないとあらぬ所へ連れて行かれる。(イポーという街で油断して降りそびれ、街外れに連れて行かれた。運転手は親切で、タクシーを止めて駅まで送り返してくれたので助かったが…)ひたすら道路標識に目を凝らし、タンピンらしき街に入ったところで「ステーション?」と聞いていたら、踏み切りでドアを開け線路の向こうを指差す。暗い道を5分ほど歩き、やっと駅に到着した時には涙した。


 旅は、現地の人たちの好意なしには成り立たない。それに気づけないくらいなら、旅に出る意味なんてない。

マレー半島きたみなみ その1

 もうすぐ引退してしまう旧型スカイライナーで上野に戻ってきて、銀座線に乗り換えるとゾッとした。みんな同じような顔をしていて、気持ち悪い。もちろん僕だって典型的な大和民族顔だし、一日もすれば慣れたのだが、マレーシアやシンガポールのような多民族国家から戻ると肌の色、骨格からファッションまで、人々の間に違いのない世界が不思議に思える。

 バンコクからの夜行列車でマレー半島を17時間南下し、午前8時ごろタイ=マレーシア国境のパダン・ブサール駅に到着すると、ベッドメイキングを担当していたおっさんが「ボーダー、ボーダー」と叫びながら、乗客の追い出しにかかった。土建屋の事務所のような建物で出入国手続きを終えて車両に戻ると、それまでは日本人の顔をちょっと濃くしたようなタイ人が主流だったのに、だいぶ民族のバラエティが豊かになっていた。イスラム教徒らしくスカーフで頭を包んだマレー人の女性グループ、いきなり中国語で話しかけてきた華人一家、髭の見事なインド系男性、相席もころころ変わる。思えば世界12か国目にして始めてのイスラム圏入りだが、これだけ民族が多様だと緊張も続かない。暑いのに上から下まで布で包んだマレー女性の忍耐力に感心しながら眺めていると、隠されていることが逆に欲情を刺激するようで、ここに記すのも恥ずかしいような想像が進むのだった。


 それはさておき、あくまで観光客としての断片的で身勝手な印象を述べれば、マレーシア人はとても親切である。たとえばペナン島対岸バターワースのバスターミナルで切符片手にきょろきょろしていると、次々声をかけられた。これがベトナムだとぼったくり度百パーセントの客引きなのでお金がらみで声をかける人を信じてはいけない(そのかわり彼らの人懐っこさ愛らしさはすばらしい)し、はにかみ屋のタイ人だとそもそも声をかけてこない。余談だがタイ人の気質は報道されている反政府運動から想像できないほど穏やかで、タクシーの運転手が一方通行の道を逆走したときにもクラクション一つ鳴らさなかったぐらいだ。


 世界遺産の港町マラッカで定番の観光は、たくさんの花でデコレーションされたトライショー(人力車みたいなもの)に乗って街を回ることだ。旧市街の中心・オランダ広場で市バスを降りると、トライショー漕ぎがワッと声をかけてくる。ほかの国だと価格交渉から始めなくてはならないので面倒だけど、マラッカでは1時間40リンギット(1200円ほど)という公定価格が定められているのでありがたい。

 僕が乗ったトライショーの主は李さん、中国系移民の男性と地元のマレー系女性が築いたババ・ニョニャといわれる家族の末裔だという。「いくつに見える?」と聞くので、「40〜45くらいかな」と答えたら、なんと今年60歳とのこと。面白いのはマレーシア人にとって隣国インドネシア人はジョークの対象で「フェリーでここから数時間かければインドネシアに渡れるんだけど、あいつらは金をむしりとるから、財布が空になっちゃう」そうだ。


 李さんのガイドは楽しく、お土産屋のセンスもよく、その後入ったマッサージ屋も、ババ・ニョニャの料理店も当たりで、長い旅で学んだ「旅は2勝3敗くらいが標準」「幸運が続く時は危ない」という経験則がアラームを鳴らす。