荻原浩 『あの日にドライブ』

あの日にドライブ

あの日にドライブ

 上司にタンカをきって銀行を辞めたタクシー運転手が、さいごは愛する家族のために一踏ん張りする話−−−こう書くとあまりに平凡な話である。主人公にしても銀行員時代のエリート意識がなかなか抜けず、すごい能力を持つわけでもなく、読者に愛されるタイプとはいえない。
 しかし僕は、けだるい日常に正面から取り組んだ、荻原浩という作家の覚悟をみるのだ。


 タクシー会社に再就職したものの、不景気から客は減るばかりで、過当競争のこの業界。とうぜん主人公もうまくいかず、ノルマを達成できない。収入はガクンと下がり、妻や娘息子とはうまくいかず、不規則な生活とストレスから頭には円形脱毛と、なにもかもうまくいかない。
 運転手は客を選べない。どの道路に客がいるのか、その客はどこまで行きたいのか。長距離か短距離かで売り上げに差が出る仕事、すべてが偶然や運に左右されているみたいだ。


 人生のドライブにもうまくいかない主人公は、就職や結婚の選択だって、結局は偶然や運なのではないかと感じる。偶然によるもの、自分に責任のないことだからこそ、「もし、あの時こうしていたら」と想像できる。「昔の彼女と一緒にいたら」「あの会社に勤めていたら」…グダグダとつづく中年男の大妄想は、迷い道に入り込んでしまう。
 ああ、その情けなさ! でも誰がそれを笑えるだろう。「もし…」を考えたことのない人なんていないはず。


 タクシーが客をつかむように、小説はエピソードを乗せたり降ろしたりしながら走っていく。上質のユーモアと丁寧な文章に支えられた、快適なドライブだ。
 昔の女を追いかけては現実に裏切られ、かつて夢見た仕事の現実にふれては愕然とし、主人公は妄想から解放される。

 伸郎のハヤシライスが来た。
「うまいよぉ、ここのは。なんせ親父さんは、帝国ホテルでフランス料理をこしらえてた人だから」
 他人の人生を甘く見てはだめだ。四十三にして、遅ればせながら伸郎は、それを知った。
 夢も向上心もない? 人生に何かを賭けたことがない?
 手にしたスプーンに、凸型に歪んだ自分の間抜け面が映っていた。
 それはおまえのことじゃないのか?

 同僚のドライバーや自分を気遣う家族と、それまでのプライドを捨てて関わるうちに、自分で頭を使い、行動するほか、現実は変わらないことに少しずつ気づいていく。
「運にばかり頼ってたら、勝てないんだよ、マッキー」
 現実は偶然や運に左右されるかもしれない。それでも自分で道を選ばないことには始まらない。そんな勇気を手に入れた主人公のまわりで、長年さび付いた歯車はギシギシいいながらも回り出すのだ。


 ドラマチックな展開はない。刺激的でもない。そんなテーマをあえて選んだ荻原浩という作家に、「普通の人の日常」を描く覚悟をみる。
 大げさなことばで、一瞬だけ興奮させるのではない。読み手の生き方を、たとえわずかであってもよい方に動かそうと試みる。僕やあなたの日常にとって、本当に必要な小説が、ここに生まれた。


※ステキな小説を教えていただいたイズミ姉さん、ありがとうございます!