12月30日 伊那路編

yabu812006-01-02


 朝6時前に中野を出て、「青春18きっぷ」の呪い(特急や急行に乗ってはならない)によってひたすら鈍行列車を乗り継いだ僕は、9時47分、諏訪湖のほとり岡谷に着いた。きょう乗るのは長野県の辰野と愛知県の豊橋を結ぶJR飯田線だ。山岳地帯にある信州はわずかな平地である松本平、善光寺平(長野盆地)、佐久平、伊那平に人口の多くが集まっており、飯田線諏訪湖を水源として木曽山脈中央アルプス)と赤石山脈南アルプス)の間を流れる天竜川が形成した、伊那の谷を南に走る。


 岡谷から10分ほどで辰野に着いた。岡谷−辰野−塩尻間は、もともと東京と名古屋を結ぶ中央本線の一部で、地図をみるとM字の右下が東京方面、右上が岡谷、中央下が辰野、左上が塩尻、左下が名古屋方面である。どうしてこんな遠回りをするかというと、岡谷と塩尻のあいだに塩尻峠という難所があったためだが、地元の政治家が伊那谷への誘致に失敗した中央本線を途中まで引っ張り込んだためともいわれる。
 昭和58年、その塩尻峠を貫通するトンネルが完成し、新宿から岡谷、塩尻を通って松本へ抜ける特急「あずさ」号は、M字の左上と右上をつなぐショートカット線を通るようになった。駅前には「ほたるの町に特急あずさを呼び戻そう」という看板が立っているが、辰野に首都移転でもない限りそれは無理であろう。かつては多くの特急や急行列車を止めた長いホームに、飯田線の短い2両編成が止まっている姿は、諸行無常である。


 ところでこの2両は「電車」である。東京の人間はものを知らないから、線路の上を走っていれば何でも電車というが、田舎のローカル線といえばたいていディーゼルカーである。なのにどうして飯田線が電車かというと、戦時中に4つの私鉄を合併してできたからだ。
 都市と都市を結ぶのが使命だった国鉄に対して、私鉄は村から町へと近距離のお客さんを一人でも多く運んでお金を稼ごうとする。だから飯田線にはとにかく駅が多い。およそ200キロの途中にに92もの駅がある。辰野から豊橋まで全線を直通するド根性電車もあり、たとえば10時に辰野を出ると豊橋には15時54分に着く。これが夜行や新幹線なら我慢もできるだろうが、小田急線の各駅停車に6時間乗り続けるようなものと考えると、いくら鉄道ファンでもぞっとする。


 というわけで2両の電車はちょっと走っては止まり、また走っては止まる。ワンマン電車なので、駅を出たとたんに「まもなく○×です」というテープが流れる。伊那の谷は思ったより幅が広く、人家もなかなかとぎれない。無人駅でも一人二人と客が乗ったり降りたりしている。さっきは飯田線を「田舎のローカル線」と馬鹿にしたが、沿線には長野県下だけでも北から伊那市(人口6万人)、駒ヶ根市(3.5万人)、飯田市(11万人)と3つの市がある。
 13時25分、伊那谷の中心である飯田に着く。旧飯田藩の城下町で戦国時代から毛利秀頼、京極高知、小笠原氏、脇坂氏、堀氏らが治めてきた。藩主がよく変わるのはその土地が戦略上重要ということで、東海道から信州に入るには伊那谷か木曽谷を経由するほかないのだから当然であろう。
 市内には主税町、追手町、伝馬町などの由緒ある地名が残っているし、道も碁盤目とまではいかなくても、直角に整然と交わっていて、城下町らしい。高い建物は少ないが、商店街が発達していて、長いアーケードが続いている。もっとも城跡は立派な美術館になっていて、しかも年末年始は休業で、用水路や井戸のあとを眺めるだけで帰ってきた。


 飯田発14時45分の列車でさらに南へ。飯田から先は木曽山脈赤石山脈がぐっと接近して、谷が狭くなる。、電車は緑の水面が穏やかな天竜川のすぐそばを走る。このあたりは天竜峡といわれる景勝地で、速度を落として崖っぷちの急カーブを通ったり、短いトンネルを頻繁に抜けたりして、ご苦労なことである。飯田線の中でも難工事だった区間で、山に詳しいアイヌの技術者を招いて、当時日本の最高技術をもって開通させたのだという。
 長野県の最南端にある天龍村の平岡で下車。駅に併設して村営の温泉施設があり、一風呂浴びようという魂胆だ。
 300円を払って浴場に入ると、肩のがっしりしたおっさんがいる。挨拶をすると、いろいろ身の上話をはじめたが、中部の方言に無知な上に、音が反響して何を言ってるのかよくわからない。それでも何とか聞き取れたのは、この村の出身で今は引退して帰ってきたとのこと、ダムの設計技師でかつては東京や名古屋でも勤めていたとのこと、学生時代は野球をやっていたが、肩を痛めてやめたのとのことである。
 高校は天龍村から豊橋まで通っていたという。ここから豊橋まではたっぷり3時間はかかる。「よく通えましたね」というと、
「6時の始発で出かけて終電で11時に帰ってくるんだけど、家では寝てるだけだったなあ。それでも1時間目には間に合わなくて、先生には特別に許してもらってたよ」
 というようなことを言った。


 17時11分発の豊橋行きに乗る。2両編成に乗っているのはあわせて5、6人という有様だ。外はすでに暗く、闇の中を走っているようで、風呂上りの気持ちいい気分でうたた寝する。この起きているのか寝ているのかわからないような心地が、鉄道旅行の醍醐味であろう。
 静岡県から愛知県に入り、新城あたりからは豊橋平野に入り、宅地やスーパーが目立って郊外電車っぽくなる。岡谷からおよそ10時間かかって19時54分、終点の豊橋についた。
 飯田線では駅の立ちそばくらいしか食べられなかったので、何にしようかと駅前で食堂のショーウィンドーを眺めていると、ホームレスが寄ってきて「こっちにおいしい店がありますよ」という。ついていってみると、「私が好きなのは…」などと言い出す。愛知県の乞食はずいぶん積極的である。何も豊橋のホームレスにご馳走する義理はないので、一人で焼肉屋に入り、ビールを頼む。一番安いホルモンを頼んだら店員が心配そうな顔をした。しばらくすると皿にどっさり盛られたホルモンが到着。こんなに精力をつけてどうするつもりなのだろう。
 その夜は駅前のビジネスホテルに泊まった。眼下のアーケード街を忘年会だろうか、群れて騒ぐ若者たちが次々通る。暮れの30日に一人で何をやっているんだろう、自分の青春はどこへ行ってしまったのかと、少し寂しい思いをしながら一日を終える。