鋼鉄の騎士

 裏切り、というのは何度されても嫌なモノである。
 はじめは相手への怒りや憎しみが吹き出す。それだけですめば簡単なのだが、まだ相手を信じようとする自分に気づく。信じたい、でも現実には信じられない。その狭間でもがくうち、自分の人を見る目のなさを嘆くとともに、その人の信頼を得ることをできなかった自分への信頼をも失ってしまうのだ。
 だから人は苦悩する。

鋼鉄の騎士〈上〉 (新潮文庫)

鋼鉄の騎士〈上〉 (新潮文庫)

 第二次大戦直前のヨーロッパ、自動車のGPレースに魅せられたひとりの日本人青年が、レーサーを目指す。しかしソ連、旧帝政ロシアナチスドイツの謀略戦争に巻き込まれ、たびたび命を狙われる。混沌とするパリを舞台に、官憲にまで追われる身となった青年は果たしてレースに出られるのか、そして勝てるのか?
 文庫本で上下巻各750ページというボリュームに脅えたが、6日間で読み切ってしまった。この物語には裏切りが満ちている。愛した人がスパイだったり、スパイとして信じていた人が二重スパイだったり。裏切られた者は殺されるし、裏切った者も殺される。人の死は軽い。
 この本がすごいのは、スパイを単なる悪人としてではなく、人間として描いているところだ。スパイにならざるを得ない、その苦しみを見つめている。「愛する者のどちらかを裏切ることなどできなかった。だから、両方に荷担し両方を裏切るしかなかった。」
 人が人を信じられない過酷な状況で、ひとりの日本人青年が味方を増やしていく。ライバルや敵対組織の人間すらも虜にし、最後にはチームとして事に当たるのだ。彼は誰もがあきらめそうな状況に陥っても、道を開こうとする。僕はこの本を、壮大な裏切りと信頼の物語として読んだ。


 僕が味わった裏切りなど、命もかかっていないし、小さなゴミのようなモノだ。ただ、人への信頼が絶たれれば、やはり鬱ぎこみたくなる。
 自分にできるのは、自分への信頼を守ること。それしかないんだけど。