新年の挨拶

 社長の挨拶って、なんでこうもつまらないんだろうか。
 今週はおおかたの出版業界の方々と同様に、日販・トーハン・栗田と新年会を回り、いろんなお偉いさんの挨拶を聞いた。何百というお客さんを前に堂々と話す姿にはさすがトップだなと思ったが(後輩の結婚式でたかだか五十人を前にあがって挨拶を忘れた小心者が何を偉そうに)、中身は十年一日の「出版不況は努力と工夫で脱出できる」「活字の力を信じよう」といったもの。
 そもそも「活字の力」ってなんだ? 説明してくれるのかなと思ったが、誰も教えてくれなかった。こういった「何かを語っているようで、そのじつ何も語っていない」正論(勝間和代の本みたいなものだ)を聞くと、ああ今年も出版業界は悪くなる一方だと絶望しますな。


 ものを書く人、出版にたずさわる人、日本語でものを考える人は必読の一冊。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

 世界のさまざまな場所で、人々はいろんな言葉を用いてものを考え、書き記してきた。人間が言葉を使うと同時に、言葉が人間を作る。だから僕たち日本人は、日本語によって作られてきたと言っていい。
 しかし世界ではグローバル化の名のもとに、英語への一極集中が止まらない。近い将来、世界各地の「頭のよい人」たちは、英語でものを考え、交流するようになるだろう。
 また、今の日本の教育方針は「日本人誰もが、道案内や観光旅行できるくらいの英語力」を身につけることを目標にしている。その余波で国語教育は軽視され、「日本語でしか表現できない世界」を記録した、日本近代文学という財産を我々は失いつつある。
 このまま行けば僕らは幼稚な英語と幼稚な日本語でしか、ものを考えることができなくなるだろう。幼稚な言葉からは幼稚な思索しか生まれない。(総理大臣がいい例だ。)仮にも民主主義国家である日本がその結果どういう状況に見舞われるかは、想像に難くない。

 水村さんは、現行の「誰でも幼稚園レベルの英語力」という方針を捨て、義務教育では日本文学の読み方を徹底的に学ばせるべきだとする。それは市場(企業)の望むものではないかも知れない。しかし、教育と市場原理はまったく別のものであり、逆に市場が支えられないからこそ、日本人が日本人たる根源の、日本語の使い方を徹底して教えることこそ教育の役割であると説く。(この辺は内田樹の『街場の教育論』と共通する。)
 同感である。だが正直に言えば、僕はこの「英語の波に対抗して豊かな日本語を甦らせる戦い」は、残念ながら負けてしまう気がするのだ。なぜなら、日本語の豊かさをを存分に味わいながら育ち、自ら使いこなせるといった日本人が、急激に減っているからだ。教える人や伝える人がいなければ、日本文学も鍵の開かない宝箱と変わりない。
 僕はかなり徹底して日本文学とつき合ってきたが、同世代を見渡せば僕程度の人間が「文学好き」になってしまうくらい、まわりは文学に無関心である。知的な才能のある人間が文学に見向きもしないこの状況を、ひっくり返せるのかと問われれば、自信はない。


 そのあたりは水村さんにもよくわかっている。だからこそ、最後の文章は悲愴である。

 それでも、もし、日本語が「亡びる」運命にあるとすれば、私たちにできることは、その過程を正視することしかない。
 自分が死にゆくのを正視できるのが、人間の精神の証であるように。

 出版業界のお偉いさんに言いたい。「活字の力」を信じるのは大いに結構。ただそれなら、あなたが今何を読んでいて、どう感動したのかを教えて下さい。それこそが僕たちの知りたいことであり、「活字の力」を信じることにつながるはずです。
 僕ら出版人もいい本を読み、その魅力を人に伝えましょう。新聞広告に載せるような上っ面ではない、僕らの腹の底からの言葉で、人に動かして本を読んでもらいましょう。それしか、苦しい状況を打開する策はないはずです。
 これをもって新年の挨拶と換えさせていただきます。ご静聴ありがとうございました。