たかが香港 その3

 香港へ旅した人は当然のようにマカオへ足を伸ばすらしい。ポルトガルの旧植民地として残された古きヨーロッパ風の街並みは女性を惹きつけるのだろうし、ギャンブル好きな男なら東洋唯一とされる豪華なカジノが魅力だろう。まして香港のように史跡に乏しいところを幾日か回った旅人にとって、観光スポットの多いマカオはありがたいものだ。だが、僕はあえて、ヨーロッパ的な色気の全くない中国・深圳を訪ねることにした。マカオは大切な女性と香港を旅した時のためにとっておくことにしよう。(強がり)


 大陸へは尖沙咀東の地下駅から、5分おきに九広鉄路の東鉄線電車が走っている。香港の過剰な街並みを抜ければ、丘や山の連なる郊外を走ること40分、香港側の終点・羅湖駅に到着した。大勢の香港人がプラットフォーム先端の出口に向かう。今日は日曜日、物価の安い深圳へ買い物に向かうのだという。


 香港と中国は、もはや「国境」ではないはずだが、香港側で出国審査を済ませ、神田川ほどの狭い川にかけられた短い橋を渡る。かつての国境を歩いて越えた。思えば日本の周りは歩いて国境を越えられない国ばかりなので、貴重な経験である。橋を渡り終えたところに中国の入国審査があり、イミグレーションを抜ければそこは中国広東省深圳だ。


 大きな広場と、それを取り囲む巨大なショッピングビル、広州方面への鉄道駅。看板からは英語が消え、大学の教室でなじんだ簡体字・北京語による中国共産党のスローガンがあちこちに掲げられている。駅前に屯する暇人の顔が、日焼けして色黒く、着ているものが粗末になる。嗚呼、中国へ来たなぁとシミジミした。電車に乗れば懐かしき「文明乗車」の文字!
 ショッピングビルに入ってみればそこは大陸テイスト、一角には開放的な造りの歯科医院が集まっており、診察室が外から丸見えである。地下鉄で深圳の繁華街・老街へ足を伸ばせばマクドナルドもある近代的な街並みなのに、なぜか腐臭がする。深圳一大きな書店、深圳書城を訪ねれば、本の上に腰掛ける客、地べたに座る客、上海でなじんだ呑気な中国人の勢揃いだ。


 香港と大陸は、出入国を含めても一時間足らず、元は中国南部の同じ文化圏に属していたはずが、たかが2世紀足らずでここまで違ってしまうものなのだ。ソウルの下りでも書いたが、香港と深圳より、香港と東京の方が感覚的にはずっと近い。


 深圳一高いといわれる地王商業大厦の高層展望台に上ってみた。深圳トウ小平の掛け声で発展した経済特区、平野に白い高層ビルが建ち並んでいるが、新しいビルばかりで、大都市特有の湿り気というか猥雑さがない。シムシティで作った街のように、どうも不自然である。
 もっともそれは時間が解決する問題なのだろう。中国が香港を呑み込むといわれるが、深圳という街は、香港をめざして走っている。一千万の人口都市に、僕は現代中国のダイナミズムを感じた。


 帰りは落馬州を経由して香港に戻り、日曜深夜便の飛行機で羽田に帰ってきた。半袖で平気だった香港と比べれば、東京のなんと寒いことか、そしてなんと大人しいことか。香港の信号機はカウベルを叩くような音を赤の時は4拍子、青の時は16拍子で出し続けているのだ。街中のあらゆる信号から「カン…カン…ココココココココココ」と鳴り続け、静寂という言葉から無縁の香港から戻ってみれば、東京は実に静かな町である。ちょっと物足りないが、じきに慣れた。
 静かな町で静かな生活を僕は送るのだ。