名古屋訪問記

 名古屋は遠かった。
 朝6時前に中野を出たのに、着いたのは昼の2時過ぎである。途中、静岡で朝飯を食べるために降りたことを差し引いても、東京〜名古屋間の純粋な乗車時間だけで6時間を超えている。新幹線なら2時間かからないところを、だ。往路で内田樹『ためらいの倫理学』復路で同じく『大人は判ってくれない』と岩中祥史『名古屋学』を読み切ってしまった。電車は最高の読書スペースだ。
 そてはさておき、近くて遠い街・名古屋の探検を始めよう。

 駅前の書店を物色してから、地下鉄で大須観音駅へ。観音様を起点に大きなアーケード街が広がっている。アーケードを左に折れて見えるボロい建物が、名古屋唯一の演芸場たる大須演芸場。昭和40年にオープンして以来、何度も閉鎖の危機にさらされながらも足立秀夫席亭と支援者の努力によって生き残ってきた「奇跡の寄席」である。かつては古今亭志ん朝がその心意気に感じて公演を行った。今は休みだが、2007年の初席は行われるようでよかったですな。
 しかしこの町の居心地良さはなんだろう。古着屋の隣で干し昆布を売っていたり、お好み焼き屋の隣にコンピューターショップがあったりでカオス化している。アメ横とアキバとおばあちゃん銀座と原宿を混ぜて薄めた感がある。僕は下々の出なので、こういう街は一日いても飽きない。
 投宿して一眠りしてから、夜の錦町を通って繁華街の栄へ。歩くうちに名古屋の女性の傾向が見えてきた。まず色が白い。(札幌と違ってコレは化粧の成果だろう)スレンダーで、髪型はストレートか名古屋巻き。だから一見キレイなのだが、しゃべり出すと高い声でがゃーがゃーみゃーみゃー、その落差に惚れる人もいるだろうしガッカリする人もいるだろうし。昼はきしめん、夜はひつまぶし。

※栄でみかけた謎の看板。早朝に起きた自転車vs自転車の事故。(はじめ「自動車」の見間違いかと思った。)しかも信号機の状況を教えてって…こんな看板が半年たっても立ってるとは、ステキな街です。

 二日目は名鉄犬山駅からバスに乗って粉雪のちらつく明治村へ。スケールが大きい。その名の通り明治期の建築が
60棟以上、1丁目から5丁目に分けて移設されているのだが、1丁目を見るだけで1時間近くかかってしまった。
 明治は、今を形作った時代である。役所、病院、学校、監獄、ホテル、郵便、鉄道という考え方が初めて輸入され、建物として具現化された。もちろん現代にいたってそれぞれ進化はしているが、本質は何も変わっていない。「第四高等学校物理化学棟」にある階段教室に入ったとき、出身高校の理科教室とあまりにそっくりで驚いた。
 森鴎外夏目漱石旧居には和のスタイルを徹底している清々しさを感じる一方、西郷従道邸のように、今の僕らから見てもキザすぎるほどの洋風を押し進めた生活もあり、時代精神の葛藤が伺える。そしてキリスト教関係の「聖ヨハネ教会堂」や「聖ザビエル天主堂」に入ると、当時の人がその荘厳な雰囲気に酔って、次々入信していった気持ちがわかる。
 大学の頃までは歴史に興味が持てなかったのだが(文学部なのに!)、最近面白くなってきた。それは漱石、鴎外、啄木はじめ文人の書いたものから時代を見通す癖がついたからだ。そのきっかけになった『「坊ちゃん」の時代』が読みたくなった。
 その後名古屋港の岸壁で夕暮れにたたずんでから、栄地区の書店を物色。昼はミソ煮込みうどん、夜はエビフライのスパゲッティー。スパゲッティーの上にエビフライをのせる必然性を僕は説明できない。だいぶ胃にもたれた。 

 三日目は名古屋城へ行こうと思ったが、年末なので観光施設はすべて閉鎖(城が休むなってんだ!)仕方なく堀のまわりをぐるっと回る。城はお世辞にも美しいとはいえず、金のシャチホコだけが朝日に輝いている。正直いって下品だと思う。これほどの大都市なのに、美とか文化とかの香りがないのには、かえって感心する。名古屋を舞台にした文学も『三四郎』の冒頭ぐらいしかうかばないし。「あなたは余っ程度胸のない方ですね」
 名鉄ご自慢の新型特急「ミュースカイ」(ミャースカイじゃないのね)に乗って中部国際空港セントレア)へ。常滑を出ると長い橋を渡って空港島へ入る。滑走路を眺められる銭湯(900円)があって、風呂に浸かりながら離陸を待っているのだが、こういう時に限ってなかなか飛ばないのでのぼせてしまった。出発案内のモニターをみると、国内なら札幌や福岡、海外はソウルや中国、バンコクなど近距離の路線が多いようだ。昨日の雪で閉鎖されていた展望デッキも昼すぎに開放され、その突端からは伊勢湾の向こうに名古屋の街が見渡せた。名古屋人はどえりゃーものを造ったものである。金山でミソカツ丼を食べて帰途についた。