思い立って信濃路紀行 前編

 中央本線、松本行き最終のあずさ号は新宿を21時に出るので、ダラダラ残業をせずに会社を19時ごろ出れば、いったん中野の自宅に戻って着替えてからでも間に合う。
 時間通り発車し、新宿の高層ビル群を左窓に見ながら駅弁の山菜弁当をパクついていると、思ったより夜は長いものだと思う。いつもなら「今週の仕事は今週のうちに」とムダに張り切って会社を出るのが21時過ぎ、それから神楽坂のラーメン屋かお好み焼き屋あたりで空きっ腹を埋めて、早稲田か中野の飲み屋に寄り道、家に着いたらタモリ倶楽部を見ながら枕を抱いて夢の国へ、という生産性も色気もゼロのパターンだ。もっとも今晩だって別に用があるわけでもなく、久しぶりにどこかに行きたくなって、松本に住む高校時代の悪友鮭氏の家へ遊びに行くだけなのだが、特急に乗っているとそれだけで何かしたような気になるから不思議だ。
 23時08分発の小淵沢から先は接続する普通電車もなくなり、この特急が文字通りの終電となる。1駅飛んで富士見、2駅飛んで茅野、上諏訪、下諏訪、岡谷、1駅飛んで塩尻と丹念に客を降ろし、終点の松本に着いたのは23時55分だった。雪のかけらさえ見あたらない。どこか学校の卒業式でもあったらしく、若者が駅近くの飲み屋周辺でたむろしている。その脇をタクシーに乗って(偉くなったモンだな!)鮭邸へ向かう。鮭は大学の飲み会のあと、こちらも電車で缶ビールを何本か空けているにもかかわらず、顔を合わせると何はさておきコンビニへ出向いて酒を買い込んでいるのだから、ダメな連中である。

 翌日は鮭氏の愛車(タンクが小さくて300キロも走ると空になると愚痴っていた。ガソリンをトランクに詰めておけばいいのにね)で出かけることにした。
「スキー場に雪がない訳じゃないし、一滑りするって手もありますぜ」と鮭。
「僕がスキーできないのわかってて言ってない?」
 というわけで、上高地の近くにある白骨温泉へ行くことに。途中、国道沿いのセブン・イレブンで朝食を調達。胃が重いので軽くサンドイッチですませようかと思うと、鮭が「日本人なら朝はおにぎりでしょう」と訳のわからないことを言う。
「そんなこと言っても、お前が選んでるのは辛子明太子とマヨネーズめんたいじゃないか。」
「何が悪い」
「ふつう日本人がどーだとか言うなら、シャケとか昆布とか梅干しとかにしない? しかも明太子かぶってるし」
「好きだからいいんですー」
 25歳男ふたりの会話である。会話レベルが高校時代からまったく進歩していない気もするのだけど、大丈夫か、こいつら?

 白骨温泉への最短ルートとなる県道は冬季閉鎖されており、乗鞍高原へ迂回してそこから林道を経由せよとの指示が出ていた。この林道がえんえん続くいろは坂、思いだすだけで気持ち悪くなるほどの悪路だった。昔は車酔いがひどくて、それがレールファンになった一因なのだが、あのころ学校で修学旅行なり遠足なり行くたびに吐いていた記憶がよみがえった。鮭がさすがに気を使ってくれて、途中で休みを入れてくれたので、フラフラになりながらも踏みとどまったが、バスだったら間違いなくREVERSEしていただろう。
 目当てにしていた河岸の露天風呂はどちらの行いが悪いのか冬季休業。泡の湯という旅館の風呂に入る。
 「泡の湯」の名の通り炭酸ガスの泡が肌にまとわりつき、陰毛なんて真っ白になっている。脱衣所から内湯を通って外に出ると広々した露天風呂があった。ヌルヌルした足下に難儀しながら前進して乳白色の湯に浸かると、どうも近くで女の声がする。
 振り返ると、今入ってきた入り口と並んでのれんの掛かった入り口があって、「女性専用脱衣所」と書かれている。なるほど、混浴だったのか。どうせ眼が悪くて見えないから同じなのだが、メガネをかけて入った鮭(もしや気づいてたのか?)によると娘さんはいないという。
「しかし、若い子も温泉は好きなのに、なんで混浴にこないのか」
などと不毛な議論をした気もするのだが、のぼせて覚えていない。

 悪夢の林道を戻り、今度は乗鞍高原日帰り温泉「湯けむり館」でふたたび露天風呂。メガネをかけて入ろうかと思ったのに、今度は混浴ではない。3月とは思えない陽気で、お湯もぬるかったので、だらだら喋りながら1時間近く浸かっていたと思う。雪の季節に露天風呂に入ったときの、頭は北風に吹かれて寒いんだけど肩から下があったかい、あの感覚が味わえないのは残念。
 休憩所で昼寝してから、松本へ戻る。北杜夫が『どくとるマンボウ青春期』で描いた旧制松本高校跡の「あがたの森公園」を散策する。旧制高校記念館に入ると、鮭は旧制松高のずっと後輩にあたるので、興味深そうに見ている。

 夜は鮭の薦める韓国料理屋「やんちゃ坊」へ。長いあいだ居酒屋に通って思うのは、
「料理のレベルは突き出しでわかる」
 ということなのだが、このお店、はじめに出されたモヤシの漬け物からして、味が違う。お代わりしたくなるほどだ。続いてキムチやらユッケやらチジミやらビビンバやらのフルコースを食したのだが、辛みが効いているのに止められない、魔力的な料理の数々で、自分の朝鮮料理観を改めるほどだった。
 辛みで話もだいぶヒートアップしたようで、もともと男らしくないお喋り同士「最後に甘えたたがりはお前だよ」「亭主関白か、自分」なんてバカ話を散々していたようだが、二人の将来に関わるので割愛。
 しかし温泉をハシゴして公園を散策してキムチ食べながら怒鳴りあって、若いモンのやることか疑問は残るけど、こんなにくつろいだ土曜日も久々だった訳です。
 高校時代、毎日がこんなだったんだから、楽しくないわけがないよな。