思い立って信濃路紀行 後編

 天国のような位置の姨捨駅から電車は下界に戻り、9時45分篠ノ井駅着。ホームで乗り換えの電車を待っていると、フェンスの後ろを新幹線が突風とともに通過していく。高架橋を走っているときはそれほど感じないが、間近で見ると新幹線は狂ったようなスピードを出しているし、その中で平然と座っている人間が信じられない。ま、自分もその一人なのですが。
 しなの鉄道で2駅走ると、屋代駅に着く。ここから長野電鉄に乗り換えるのだが、跨線橋が途中から木造に変わり、床がきしむ。長野電鉄は地方の名門私鉄で、県都である長野駅付近は地下を走っているし、志賀高原の入り口である湯田中までは観光特急が走っており、幹線区間の長野〜信州中野間は昼間でも1時間に3、4本電車がある。ただし、支線のような扱いになってしまったここ屋代から須坂までの区間は一日に片道15便。日中は1時間半に1本という紛れもないローカル線である。

 農村地帯の小さな駅に止まっては走り、止まっては走りしているうちに、5駅ほどで松代駅に着いた。川中島古戦場のすぐそばで、武田信玄山本勘助に命じて作らせた海津城が土地の起源である。変遷を経て、1622年に同じ信州上田藩の統治者であった真田信之真田幸村の兄)が入城してからは、幕末まで真田家の統治が続いた。石高は10万石、伊達の宇和島藩津軽弘前藩と同じクラスである。
 駅のすぐそばには真田邸や松代城址があるけれど、真田邸は修復工事中(いつもながらタイミングが悪い)、松代城に本丸など建物はなく跡地が公園として整備されているだけだ。見どころといえば、幕末の1855年(ペリー来航の翌々年)に開校した文武学校だろう。吉田松陰勝海舟の師であり、司馬遼太郎の幕末小説にもたびたび顔を出す松代藩士・佐久間象山の進言で作られた高等教育機関で、蘭学や西洋砲術など先端的な考えを学べる場であった。
 敷地には文学所、教室2棟、剣術所、柔術所、文庫蔵などの建物が残っている。ペリー来航いらい幕府という絶対的な権威が揺らぎ、天下がどうなるかわからない時代に、信州の片隅で、必死に新しい知識を吸収しようとしていた若い藩士たちに、文学所の床に座って思いをはせる。たかだか140年ほど前の話だ。

 松代の町は藩時代の面影を残しており、散策にちょうどいい。旧藩士の住居や、古い商店、先述の象山をまつった神社などをめぐりながら歩を進めると、町の南端で山にぶつかる。そもそも松代に城ができたのは、背後を山々に囲まれた盆地でかつ正面に千曲川が流れていたため、守りやすかったのだろうと思うが、その背後の山々である象山・皆神山・舞鶴山に大東亜戦争末期、本土決戦最後の拠点として、大本営や政府機関を移すという極秘計画が立てられた。
 実際に敗戦前年の昭和19年11月から工事がはじめられた。サイパン島がすでに陥落し、B29による都市空襲が現実的なものになっていたため、一刻でも早い完成を目指して突貫工事が進められた。いま見学できるのは、3つの地下壕のうち最大の象山地下壕である。延長約5.9キロ、政府省庁の一部とNHK、NTTが移る予定だったという。
 農家の裏庭を突っ切ると、地下壕の入り口がある。机にヘルメットが並べられているが、着用は強制ではないようだ。受付で記帳していると、おばちゃんが
「お兄ちゃんはヘルメットかぶらないとダメだよ。背が高いんだから」
というので、緑の十字が入ったヘルメットを装着する。探検隊にでもなった気分だ。いよいよ地下壕に進入する。
 なるほど、天井が低い。鉄骨が張り巡らされていて、186cmの自分は腰を曲げて歩いているつもりなのだが、それでも時おりヘルメットにゴツンと衝撃を受ける。ただそれは導入坑の話で、右に曲がり左に曲がり、本坑になるとそれなりの高さが確保されている。
 この地下壕が実際に使われることはなかったので、遺跡としては工事していた時のものしかない。ダイナマイトの発破用に開けた穴とか、トロッコの枕木のあとである。地下壕の全てが公開されているわけではないのだが、それでも相当な距離があり、奥の方に進むとすれ違う人もいなくなり、自分の砂利を踏む音だけが響く。
 今から見ると狂気としか思えないが、地下壕に大本営を移すという計画を立てた軍部は大真面目だったのだろう。そう、真面目すぎるのだ。戦況からして、国家の「アタマ」である天皇大本営を安全な場所に移すという判断が、誤りだったとはいえない。しかし「それだけしか考えられない」硬直した思考、「自分に間違いはない」批判精神の欠如、「為せばなる」むやみな精神主義が、結果として正気とは思えない空洞を信州の山に作り上げたのだから、歴史に学ぶことは少なくない。

 地下壕を出て、酒屋を冷やかしたりしながら松代駅に戻る。昭和時代に取り残されたようような小さな駅舎を通り、これまた小さなプラットホームに出る。3月の上旬なら例年まだ雪の残る時期だろうが、今年は妙に暖かくて、ジャンパーの前をあけてしまうほどだ。
 松代駅から長野駅までは、電車を使うと乗り換えが必要で1時間もかかるが、バスなら30分ほど、安くて便も多いので勝負にならない。したがって屋代線の主要駅であるにもかかわらず、ホームの客も少ない。それでも、どこへ行くのか中学生が参考書を読んでいたりする。

 もし自分がこの町で生まれたら、育っていたら、今ごろ何しているだろう、と想像するのも旅の楽しみだ。「読書とは、人生が一度しかないことへの復讐である」という言葉があるが、旅も(歴史を学ぶことも)また同じである。自分の性格からいって、長野の市役所にでも勤めて、土日はまとめ買いした小説を読んだり近くの寺めぐりをしていたりするんじゃないかと思うけど、その辺の判断はみなさんに任せます。

 信州・松代、ここには、
 兄幸村を大阪夏の陣で喪った真田信之が居を構え、
 佐久間象山に教えを請うため長州から吉田松陰が訪れ、
 半島から連行された朝鮮人が日本人の気違いじみた地下壕建設に汗を流し、
 そして今、穏やかな時の流れる町となった。

 カーブの向こうから二両編成の電車が近づいてきた。どこかで見覚えがあると思ったら、昔日比谷線で走っていた車両だ。東京が自分を呼んでいる、と思うのは少し自意識過剰だけど、別所温泉あたりで一風呂浴びてから、新幹線で「一度しかない人生」に戻ることにしようか。