美しき島、麗しきテツの旅 その2

 新幹線が現代鉄道技術の最先端だとすれば、百年前の最先端が、この阿里山森林鉄道である。
 阿里山というのは台湾中央に位置する海抜2500メートル級の山系であり、この木材を運搬すべく、日本の台湾総督府が鉄道の敷設を決めたのが1903年(明治36年)、漱石がイギリス留学から帰ってきた年だ。ちなみに、日本の東海道線が全通したのはわずか4年前のことである。
 そんな時期に険しい山々に挑む登山鉄道を造ろうというのだから、とうぜん工事は難航し、全線71.4kmが開通したのは10年後だった。一番急な勾配は6.25パーセント(日本の一般的な鉄道では3.5パーセントが限界)、一番急なカーブは半径40メートル(同400メートル)、それでも足りず、ぐるぐる巻きで山を登るループ線や、行ったり来たりのスイッチバックを駆使している。


 実はこの阿里山森林鉄道、地震やら台風の被害を受けており、今でも不通の区間が残っている(その区間は歩いて乗り換え)。だが乗ってみると、よくぞこんな山に鉄道を敷いたと唸るほど険しい道のりなのだ。不通区間をのぞいても所要3時間、時速に直せば30km足らずだが、山を克服しようとした当時の日本人、台湾人の苦労を偲ばずにいられない。ましてや、現代のようにディーゼルではなく非力な蒸気機関車が走っていたというのだから驚く。


 列車の揺れに任せてしまえばあっという間の3時間だけど、一世紀前に思いを馳せれば、これほど面白い鉄道はないだろう。
 想像力なき人間に、鉄道旅の味はわからないのだ。
小柄な機関車だが、彼の力で山を登るのだ
途中の奮起湖駅で買った駅弁、300円ほど

美しき島、麗しきテツの旅 その1

 新幹線の楽しみは、乗るよりも見るところにあると思う。
 わざわざ台湾まで乗りに行って、そんなこと言うのもおかしな話なんだけど。


 台北駅の地下ホームを9時06分に発車したこだま(各駅停車)タイプの左営行きは、十分もしないうち板橋駅に着く。発車すると地上に出て、コンクリートの高架橋を快走する。車両はのぞみ(700系)を改造したものだし、車窓にも水田が広がり、日本の新幹線がそのまま伸びてきたような印象だ。
 国際空港に近い桃園駅、十棟近い高層ビルを駅前に建築中の新竹駅、台湾中部の大都市・台中駅と20分ごと停まる。その間、車内のLED表示で「298km/h」を目撃したが、そんなものかといった感じでもある。
 乗車率は7〜8割ほど、平日だがスーツ姿は少なく、途中駅での乗り降りが多い。日本の新幹線との違いは、駅の停車時間が長いこと、トンネルに入るとき耳の圧迫感がないことくらい。


 上海のリニアモーターカーも、乗っている時は意外と平気だったが、帰り道バスの車窓から500km/h近いスピードで走る車体を目撃したとき、人間はなんと恐ろしい乗り物を造ったのだろうと思った。それは、駅のホームで通過する新幹線を眺めるときも同様。
 高速鉄道は見るに限る。
オレンジ色があざやかな700T系
改札の風景は日本と何ら変わらない

中華の都で暮れ正月 その4

 中国の食べ物はきわめて安い。ひとり旅だとファストフードが楽なので、好んで入った「李先生」という全国380店舗展開のチェーン店は、麻婆豆腐丼とスープの定食で80円ほどだし、別の店で朝食べたワンタンと豚まんはその旨さにしてわずか70円ほどだった。
 そういった物価水準を考えると、異様に高いのがサンドイッチやコーヒーといった「洋モノ」である。コーヒーは500円近く、サンドイッチは1000円近く取られる。
 高いから広まらないのか、広まらないから高いのか、カフェの数は上海と比べて少ない。僕は北京駅近くのビジネスホテルに泊まっていたが、何万という人通りがあるエリアなのに2、3軒しか見つけられなかった。


 ところが、あるところにはあるもので、郊外の廃工場を利用した芸術家たちのたまり場・798芸術区や、若者が集まる南羅鼓巷には、これでもかという密度でいわゆる「お洒落カフェ」が並んでいるのだ。
 観光客は肩肘をはってしまう。せっかく外国に来たのだから、その土地らしいモノで胃を満たしたいと企む。北京のように安くて旨い食べ物が揃っている街ではなおさらだ。そんな僕も、滞在が5日、6日と経つにつれて、超高級品であるコーヒーを飲みにカフェをはしごしてしまうのは旅人の限界か。
 南羅鼓巷、居心地のいい通りである。故宮の北北東にあり、細い一方通行の両側に小さなカフェ、バー、外国料理店、センスのいい雑貨店(というのが他のエリアではまず見られないのだ!)が並ぶ。扉を開けると若いオーナーが、ノートパソコンをあけて、ネットでなにやら調べている。相談や注文も漢字と英語で通じる。
 中国では1980年代生まれの若者をさして「80后」というそうで、文化基盤が西洋的生活、英語、インターネットにあり、会話が成り立ちそうなものである。しかし、現実の僕はカフェラテを飲みながら、ふかふかしたソファで同世代の若者たちがだらだら時間をつぶす様子を眺めるのみ。と、足下がもぞもぞすると思ったら、黒猫がヒザにあがってきた。まず見知らぬ人に寄りつかない東京の猫と比べて、ずいぶん積極的な奴である。
背中をなでていたら眠ってしまった。どうしたものか…

中華の都で暮れ正月 その3

 昨年は、改革開放のスタートから30年という節目で、北京の繁華街・王府井の路上では写真展などが開かれており、多くの人が立ち止まって眺めていた。中国が祝う正月は太陰暦旧正月なので、僕の滞在した年末年始はいつも通りなのだが、それでも大晦日のテレビの歌番組には「改革開放30周年記念」などと銘打たれており、政府としては経済の自由化とそれに伴う発展を、中国共産党の輝かしい成果として、内外に誇りたいのだろう。
 たしかに2008年は中国人にとって最良の一年だった。世紀の国家プロジェクトである北京オリンピックも無事終わった。四川大地震では大きい被害を被ったが、世界の援助と同情を集めることができた。チベットの弾圧はごまかすことができたし、ついでに台湾独立派の陳水扁も失脚させた。街は東京もソウルも香港も凌駕する勢いで発展している。彼らのなかで、祖国中国にこれほど満足できた年はないのではないだろうか。


 経済発展のもっとも象徴的な場所が、北京の動脈・東長安街に面した、王府井の「東方新天地」という超巨大ショッピングモールである。ガイドブックの言葉を借りれば「全長500m、売り場面積12万?とアジア最大級の商業施設」であり、とにかく大きいものを造ろうとするのは中華民族の癖だからどうでもいいのだけど、特徴的なのは中のショップの大半が外国のブランドである。西洋資本の植民地に群がる中国人の姿は、日本人と変わらない。孫文毛沢東が見たら発狂するだろう。
 僕はお土産を探しに入ったのだが、そんな場所に「中国らしいもの」があるわけもなく、地下鉄で数駅のところにある「友誼商店」へ行くことにした。
 友誼商店(ィヤオイーシャンディエン)、懐かしい響きだ。英名が「FriendShipShop」である通り、社会主義国である中国政府が外国人向けに設立した国営百貨店である。大学で学んだ中国語の教科書には、かなり最初の方(だけは勉強していたのだ)に「友誼商店で何それを買う」みたいな例文があって、耳に残っている。
 そんな青春の思い出・友誼商店には笑っちゃうくらい客がいなかった。役場のような白い壁紙と単調なレイアウト、商売を放棄した色気のないディスプレイ、身分を保障された国家公務員だからかおしゃべりに興じる店員たち…我々日本人が「社会主義」と聞いてイメージするそのままの風景だ。かつては団体観光客がバスで乗り付け、大いに賑わったというが、ツアー客はリベートを上乗せされた民間の土産屋に誘導されるようになり、客足が途絶えたのだという。
 富裕層で賑わう東方新天地と、時代に取り残された友誼商店。中国の今昔を味わうのにこれほどの対比はあるまい。

中華の都で暮れ正月 その2

 不便な場所にある万里長城にはツアーバスで行くのが普通なのだが、偏屈という宿痾を抱える僕は鉄道で行くことにした。地下鉄西直門駅を降りると目の前にガラスで覆われたモダンな北京北駅…はあいにくまだ建設中で、脇のゴミだめのような砂利道を歩くと、掘っ立て小屋と変わらない現駅舎があった。
 上野駅にしても新宿駅にしても、できた当初は小さな駅だったことに変わりないが、一世紀以上の時間をかけて段階的に立派になった。そういった階段を二三段どころか一階分飛び越えて、新しい駅や建物を造らざるをえない、中国がもつ現代化への意欲というか強迫観念を、大変だなと思う。


 万里長城への日本語ツアーは、昼食やら明十三陵やらいろいろつくのだが、ひとりあたり1万円以上かかる。天安門広場で募集している中国人向けツアーなら2000円ほどだ。そんな中、160円程度の料金で長城最寄りの八達嶺駅まで行けるのだから安いと思うのだけど、真新しい特急和諧長城号の車内は74名定員のところ5、6名しか乗っていない。
 一時間ほどで八達嶺駅に着き、駅を出ようとすると、軍服のオヤジに「ちょっと待て」と言われた。しばらくして、リュックを背負った同年代の若者二人と駅前に止まっていた自家用車に乗せられる。「誘拐じゃないよな、でもタダでもないよな」不安になりながら長城入り口に到着し、300円のお支払い。


 山の尾根にそって蛇のようにのたうつ城壁、万里長城くらい知識のあるなしで面白さの変わる観光名所もないだろう。僕も教養のなさには定評あるが、浅田次郎の『中原の虹』に目を通しておいたので助かった。沢木耕太郎は、地図をもたずに街をさまよい、現地の人と身ぶり手ぶりでコミュニケーションするのが旅だ、というけど、それは沢木さんだからできることであって、僕のような人見知りする人間は、深夜特急に乗れやしない。
 零下十度を軽く割り、しかも冷たい風の吹き荒れる城壁においても、地元のオッサンが暇つぶししていて声をかけてきた。会話が通じないので筆談で「どっから来た?」「日本です」「中国にはどれくらい?」「3日前からです」「なるほど」最後のなるほどは、僕のへっぽこ中国語に向けられたものだろうか。それでも肩を組んで記念写真を一枚。

中華の都で暮れ正月 その1

 天津駅のトイレに入った僕は、脳をつんざくアンモニア臭にクラクラした。
 十数個ある小便器の半分は、陶器が割れたり配管が外れたりして、使用中止となっている。小便器がこれほど故障するものだとは知らなかった。向かいに並んだ個室では、扉を開けて大用を足す人たち。くどくなるが、扉があるのに、扉を開けて使っているのだ。
 なにを大げさな、というかも知れない。中国のトイレが、いまだ前近代的状況にあるのは、自明ではないかと。しかしここは、中国政府が威信を賭けて建設した、北京・天津間を時速330kmで結ぶ新幹線(京津城際鉄路)の大ターミナルである。シルバーの時計台が空に突き出した宇宙基地のような外観、国際空港のように広々して清潔な構内、その中に突然現れた異空間は、中国の現実をそのまま映したものといえよう。
 からくりは簡単なことで、この天津駅は在来線との共用駅なのである。地下鉄が一回30円の国で新幹線は800円も取られる高級品だが、在来線は人民の乗り物なのだ。だから新幹線専用の北京南駅はいたって清潔である。
 ハコモノは簡単に建て替えることができる。しかし、人を入れ替えることはできない。

新年の挨拶

 社長の挨拶って、なんでこうもつまらないんだろうか。
 今週はおおかたの出版業界の方々と同様に、日販・トーハン・栗田と新年会を回り、いろんなお偉いさんの挨拶を聞いた。何百というお客さんを前に堂々と話す姿にはさすがトップだなと思ったが(後輩の結婚式でたかだか五十人を前にあがって挨拶を忘れた小心者が何を偉そうに)、中身は十年一日の「出版不況は努力と工夫で脱出できる」「活字の力を信じよう」といったもの。
 そもそも「活字の力」ってなんだ? 説明してくれるのかなと思ったが、誰も教えてくれなかった。こういった「何かを語っているようで、そのじつ何も語っていない」正論(勝間和代の本みたいなものだ)を聞くと、ああ今年も出版業界は悪くなる一方だと絶望しますな。


 ものを書く人、出版にたずさわる人、日本語でものを考える人は必読の一冊。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

 世界のさまざまな場所で、人々はいろんな言葉を用いてものを考え、書き記してきた。人間が言葉を使うと同時に、言葉が人間を作る。だから僕たち日本人は、日本語によって作られてきたと言っていい。
 しかし世界ではグローバル化の名のもとに、英語への一極集中が止まらない。近い将来、世界各地の「頭のよい人」たちは、英語でものを考え、交流するようになるだろう。
 また、今の日本の教育方針は「日本人誰もが、道案内や観光旅行できるくらいの英語力」を身につけることを目標にしている。その余波で国語教育は軽視され、「日本語でしか表現できない世界」を記録した、日本近代文学という財産を我々は失いつつある。
 このまま行けば僕らは幼稚な英語と幼稚な日本語でしか、ものを考えることができなくなるだろう。幼稚な言葉からは幼稚な思索しか生まれない。(総理大臣がいい例だ。)仮にも民主主義国家である日本がその結果どういう状況に見舞われるかは、想像に難くない。

 水村さんは、現行の「誰でも幼稚園レベルの英語力」という方針を捨て、義務教育では日本文学の読み方を徹底的に学ばせるべきだとする。それは市場(企業)の望むものではないかも知れない。しかし、教育と市場原理はまったく別のものであり、逆に市場が支えられないからこそ、日本人が日本人たる根源の、日本語の使い方を徹底して教えることこそ教育の役割であると説く。(この辺は内田樹の『街場の教育論』と共通する。)
 同感である。だが正直に言えば、僕はこの「英語の波に対抗して豊かな日本語を甦らせる戦い」は、残念ながら負けてしまう気がするのだ。なぜなら、日本語の豊かさをを存分に味わいながら育ち、自ら使いこなせるといった日本人が、急激に減っているからだ。教える人や伝える人がいなければ、日本文学も鍵の開かない宝箱と変わりない。
 僕はかなり徹底して日本文学とつき合ってきたが、同世代を見渡せば僕程度の人間が「文学好き」になってしまうくらい、まわりは文学に無関心である。知的な才能のある人間が文学に見向きもしないこの状況を、ひっくり返せるのかと問われれば、自信はない。


 そのあたりは水村さんにもよくわかっている。だからこそ、最後の文章は悲愴である。

 それでも、もし、日本語が「亡びる」運命にあるとすれば、私たちにできることは、その過程を正視することしかない。
 自分が死にゆくのを正視できるのが、人間の精神の証であるように。

 出版業界のお偉いさんに言いたい。「活字の力」を信じるのは大いに結構。ただそれなら、あなたが今何を読んでいて、どう感動したのかを教えて下さい。それこそが僕たちの知りたいことであり、「活字の力」を信じることにつながるはずです。
 僕ら出版人もいい本を読み、その魅力を人に伝えましょう。新聞広告に載せるような上っ面ではない、僕らの腹の底からの言葉で、人に動かして本を読んでもらいましょう。それしか、苦しい状況を打開する策はないはずです。
 これをもって新年の挨拶と換えさせていただきます。ご静聴ありがとうございました。